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ハート・トゥ・ハートのビジネス

1992年(平成4年)に株式会社レイクの代表取締役社長となるまで、私は一貫して営業畑に身を置いてきました。65年(昭和40年)ごろから少しずつ支店展開を始めたのに伴い、私も東京をけじめ広島、福岡、京都、名古屋など、東京以西の市場で消費者金融のビジネスを経験してきました。「活きる金をお貸しする」ということの意味も、そうした中で実地に体に叩き込まれていったように思います。73年(昭和48年)8月に広島支店をオープンしたときのことです。地元メーカーの製造現場に働いているお客さまの返済が滞り、自宅まで伺ってみると、乳飲み子を抱えた奥さんがぽつんと座っておられる。

「夫は1週間も家に帰っておらず、家にお金はない。もう別れようと思っている」と話す若い奥さんがあまりに気の毒で、私は名刺だけを置いてそこを後にしました。すると、行くときには気づきませんでしたが、近くに一軒の薬局があり、店頭に粉ミルクの缶が積んであります。そのころ私にも生後6ヵ月の娘がおり、先はどの赤ちゃんと娘の顔がダブつて仕方がない。どうにもたまらなくなり、私はミルクを1缶買って引き返し、「これをどうぞ」と奥さんに手渡したのでした。

1ヵ月後、その奥さんから封書が届き、「子供と実家に帰りましたが、谷口さんにしてもらったことは忘れません。利息の支払いまでは無理ですが、元金だけは私が分割で返します」という手紙とともに、2000円が同封されていました。彼女はしばらくかかって、夫の債務をすべて完済されました。現在と比べてお客さま一人ひとりとのお付き合いが濃密でしたから、ご入金の際に旅行土産だといってお菓子を持ってきてくださる方もいれば、お茶を飲んでひとしきり話をして帰る方もおられます。

家庭の様子もわかってくるので、こちらも子供さんの誕生日に「おめでとうございます」と声をかけ、ご家族が入院されたと聞けば容態をお尋ねする、そうした中からお客さまとの信頼関係が育ち、ときには家計の状況に変化が生じたのを察知することもあり、結果的にお客さまの視点に立った債権管理にもつながっていく。いまも私は、消費者金融とは「フェイス・トゥ・フェイス」であると同時に、「ハート・トゥ・ハート」であって初めて円滑にいくビジネスなのだと確信しています。

草創期の消費者金融業者

消費者金融業界が飛躍的な成長を始める1970年以前の時代を消費者金融の創生期とするなら、この時期ほど各社がお客さまへの対面審査において高度なノウハウを開発・蓄積し、与信技術の錬磨に力を注いだときはありませんでした。消費者金融は、単にお客さまの勤務先の安定度や所得の額に与信しているのではなく、お客さまの人となり、すなわちお約束を守っていただける方であるかどうかを見定めるところに真のノウハウがあります。個人信用情報機関もない時代のこと、お客さまとの会話を通じてその方を観察し、資金をお貸ししても大丈夫かどうかを判断する能力は、この当時の消費者金融業者にとって無形の資産ともいうべきものでした。

少し例を挙げてみると、消費者金融は短期間の”ちょい借り”であるはずなのに、常に実印や印鑑証明を持ち歩いているような人はさすがに不自然です。営業マンだというのにスーツ姿ではない、事務職だというのに手が荒れているなど、申告した職業と服装・持ち物、言葉遣いが一致しない人なども要注意です。お金が必要な背景や資金使途に関する説明に矛盾がある人についても、慎重な与信判断が必要です。対面与信の重視にはもうひとつ、お客さまとの信頼関係を深めるという大きな意義があります。お客さまとの間に親密な人間関係が築かれると、リピーターになってもらえるだけでなく、新規のお客さまをご紹介いただけるという効果も期待できます。

担当者を信頼していただけるようになれば、返済で困ったことがあっても早めに相談してもらうことができ、債権の不良化防止にもつながります。督促回収を要する場合でも、担当者がお客さまの生活状況を熟知しているので、その方に合わせた柔軟な措置をとることが可能です。一人のお客さまが完済に至るまでお付き合いするわけですから、服装や態度、来店時間帯などのちょっとした変化にも気づき、多面的に債権管理に役立てていくことができました。それだけ担当者個人の努力と経験に負う部分が大きかったともいえますが、業者が試行錯誤を繰り返しながら充実・発展させてきた与信技術は、いまなお消費者金融業の原点ともいうべきものだと思います。

他にも草創期の消費者金融業者は、見本や手本となるものが何もない中で、さまざまに工夫を重ねながらビジネスを拡大してきました。広告宣伝などもそのひとつです。お客さまの口コミによる宣伝効果に頼る以外、宣伝媒体としては一部の夕刊紙やスポーツ紙くらいしかなく、私たちもさまざまなイベントを開催して新聞や雑誌のパブリシティ広告(記事広告)で紹介してもらうなど、いろいろ知恵を絞りました。しかし、最大の苦労は何といっても資金調達でした。顧客ニーズはあっても、今の時代でいうベンチャービジネスのようなものですから、銀行も私たちのような会社には簡単に融資してくれません。手持ち資金で足りない分は、特定の個人から年24~30%という比較的高い金利で借りることが通常でした。

資金提供者を探すのは非常に困難をきわめましたが、当社の場合は地元の個人資産家の方などを紹介していただき、利回りの良い投資先としてまとまった資金をお借りしていました。私も当時、創業者の浜田武雄に伴われて資金提供者の自宅をしばしば訪ねたものですが、「私はサラリーマンの代表としてここへ金を借りに来ているのだから」と、浜田は出された座布団を固辞して板の間に座り、用事が済むとただ頭を下げて帰るのです。浜田が口癖のように言っていた「生きる金をお貸ししろ、死に金を貸すな」という言葉は、資金の有り難さを知っていだからこそのもの。草創期の消費者金融業界には、30歳になるかならないかという若い創業者たちのこうした逸話がたくさんありました。

消費者金融業界の近代化を語る

消費者金融業については、担当者がお客さま一人ひとりの状況に応じたきめ細かい与信判断を行う”人情”の篤さがしばしば語られるところです。一方で、近代ビジネスとしての消費者金融に対しては、営業面はもちろん、経営面においても合理的かつ客観的であることが何よりも求められます。では消費者金融は、近代化を遂げる過程で人間味を失っていったのかといえばけっしてそうではありません。人間味とは、債権管理や回収の場面で存分に発揮すべきものだからです。返済が滞っているお客さまについて、家計のあり方などをご一緒に見直し、返済計画を建て直すための最善策を考えていくことは、担当者が人間だからこそできることです。

昔に比べれば債権管理・回収業務もずいぶん合理化されてはきましたが、担当者がお客さまの置かれた状況を勘案し、個別にじっくりと対応することは今も昔も変わりません。業界を取り巻く法的環境が複雑化している現在、こうした面での社員のスキルや専門知識を高めるための教育は今後さらに重要性を高めていくものと思います。消費者金融業界の近代化を語るうえでは、高い志を持った同業者との強い結束と協力によって成し遂げてきた、いくつかの重要な事項についてもぜひ触れておかなければなりません。消費者金融業界は、1960年代半ば以降から拡大を始めたと申し上げましたが、都道府県知事への届け出だけで簡単に開業できたため、中には悪質な融資や回収行為によって業界の社会的イメージを損なう業者も存在していました。

69年(昭和44年)、大阪を地盤とする11の消費者金融業者が集まり、この業界を健全に発展させていくための全国的な協会組織として設立したのが日本消費者金融協会(JCFA)です。JCFAは、会員における貸出上限金利の引き下げや倫理規程の策定、各種研修の実施、アメリカ市場への視察、多重債務者の救済、消費者教育など、任意団体ではありながら、消費者金融業界をリードする存在として積極的な活動を展開していきました。もうひとつは個人信用情報機関の設立です。60年代後半ごろから、お客さまの延滞などに関する情報交換会が各地で自然発生的に行われるようになり、JCFAのメンバーの間でも、お客さまの情報交換が議論されました。

当初は競合相手に顧客情報を提供することへの抵抗感もあって、不良債権リストの交換から始まったのですが、より適切な与信判断のためには正常顧客の借入残高まで知る必要があるという声が高まり、貸付日と`融資額も回答し合う方式に変更。これを発展させるべく、さらなる検討を経て72年(昭和47年)8月に大阪に誕生したのが株式会社レンダースエクスチェンジ(LE)、すなわち消費者金融業界初の個人信用情報機関です。そしてこれを機に、全国各地に同様の情報機関が誕生していきました。

高度な装置産業へと向かった消費者金融

1970年代前半の時期は、消費者金融が古い時代の殻を破り捨て、近代産業へと脱皮していく過渡期ではなかったかと思います。機械化・コンピュータ化という側面からいえば、当社が業務効率化のためにオフラインのコンピュータを各支店に導入しはじめたのが68年(昭和43年)。73年(昭和48年)に現金自動貸付機(CD)を消費者金融業界で初めて導入し、翌年には約1年の開発期間を経て本社と支店を結ぶ第1次オンラインシステムを稼動。そして79年(昭和54年)には、入出金の双方に対応する現金自動出納機(ATM)の設置を開始しています。この時期は、外資系消費者金融会社や信販、銀行系クレジット、流通系などからの消費者金融市場への参入が相次ぎ、本格的な競合が始まったときでもあります。

CD・ATMの導入をはじめ、当社がコンピュータ化に大きな力を注いだのは、業務の合理化ももちろんですが、利便性と企業イメージを高めることによって顧客満足度を上げ、ますます厳しくなるであろう競合に打ち勝っていくという目的がありました。70年(昭和45年)ごろから銀行のCD・ATM化か進み、機械の価格がかなり下がってきたことも私たちには好都合でした。ATMを入れてみて気がついたことは、店頭融資に比ベ一回のご利用額が少なくなるという興味深い事実でした。人間の心理とは不思議なもので、借金にも多少の”見栄”が働くのか、店頭だと実際よりも多めに必要額を申告される傾向があるようなのです。

従業員相手に毎回借入れ手続きをするような面倒がなく、そのとき必要な額だけを借りていける。つまりATMのほうがお客さまの実需に応えられるということがわかってきたのです。またATMだと、返済の時期や金額もお客さまが主体的かつ柔軟に決めることができます。いまではほぼ当たり前となっているこの利用方法を実現させたのが、包括契約に基づく「リボルビング方式」です。リボ方式では、お客さまごとにあらかじめ利用限度額を設定し、その範囲内であれば随時利用・返済ができます。つまり懐に余裕のあるときに返済して空き枠を広げておき、また必要になったら借りるという、お客さま主導による借入れ・返済、言い換えればお客さまの知恵を活かしたご利用を可能にしたことが、ATM導入の大きな意義ではないかと思っています。

また消費者金融各社では、1980年ごろから与信判断に”スコアリングシステム”を活用することが一般的となりました。年齢や職業、勤務年数などの個人属性と、自社での取引履歴情報や個人信用情報機関から得られた情報などを基に、お客さまの信用度を点数(スコア)として算出するもので、確率統計論に薬づいた科学的で緻密な与信手法です。がっての与信判断業務においては、担当者の経験が大いにものをいったものですが、コンピュータが発達し膨大な顧客データの蓄積と論理的な手法が確立されたことで、人間の感情や主観が介在しない、客観的な与信が可能となってきました。これにより、個々のお客さまに精度の高いクレジットラインをご提供できるようになったことは大きな前進でした。

近代産業への脱皮を図る消費者金融

消費者金融市場は、1960年代半ばごろから本格的な拡大に向かいはじめました。当社も、より大きな市場を求めて東京への進出を決断します。当時企画部長だった私は、営業部長と2人で上京し、店舗に適した物件を求めてビジネス街である丸の内から大手町方面を歩いて回りました。めぼしいものが見つからず、くたびれ果てて八重洲まで戻ってきたとき、ふと見上げたビルの2階の窓に「貸しビル」と書いてある。大通りに面し、以前は銀行の支店が入っていたという建物です。

従来の支店とは比べものにならない立地と広さで、東京展開の拠点としてはまたとない物件です。こうして1967年(昭和42年)8月、当社の東京第1号店が八重洲にオープン。当初の融資見込みを大幅に上回る好調なスタートを切ることができ、東京という市場の広さと可能性の大きさを実感させられたものです。好調の理由は、八重洲のメインストリート沿いの1階店舗であることがお客さまからの信用につながったのであろうということ。それ以上に、他の支店では平均102・2%(日歩28銭)でご融資していたところを、年利73%(日歩20銭)という当時にすれば破格の低金利を打ち出したことが大きかったのだと思います。

今となれば”関西人の衿持”というものだったと思いますが、関西の業者が初めて東京に出て勝負をかけ、全国展開への足がかりにしていこうという以上、思い切った手を打っていきたいという意気込みがこのとき創業者にはありました。しかしこのころからは同業者の数も急激に増え、一種の供給過剰から不良債権の発生もみられるようになっていました。当社でも債権管理部門を設置し、勤務先の在籍確認を行うなど、現在につながる与信および債権管理体制を確立していきました。

また、当時からすでにお客さまを会員組織化しており、取引状況が優良な会員に限定した”現金自動貸付機”のサービスを梅田など3支店に導入したのもこの時期です。専用の機械に会員カードを入れると、封筒詰めにした2万円が自動的に出てくるというもので、いまからみれば実に原始的な仕組みのものですが、24時間・365日の自動サービスという点では、その後にやってくる本格的なコンピュータ化時代を先取りしたものでした。

多重債務者問題は大衆化時代に入った産業の宿命

小規模に始まった事業が拡大し、パブリックな性格を強めていくようになると、企業は次第に効率的に利益を上げることを優先し、”お客さま第一主義”から自分たちの論理を優先させていくようになります。これは、あらゆるビジネスに共通して起きる進化の一過程です。ここで語られる時代は、消費者金融業界においても”売り手中心主義”が進んだときだったといえるでしょう。多店舗展開や機械化を推進しながら業務の合理化を図り、高収益のビジネスモデルをつくり上げていった経営者たちはみな若く、新しい仕組みや価値観を取り入れることにも積極的でした。

しかも金融ビジネスでありながら、銀行や証券などに比べると法律による規制が緩く、銀行などにはできないようなことにも彼らは果敢にチャレンジすることができました。その意味で、規制のないところからこそ力強いイノベーション(革新)が起こるということを、消費者金融業の歴史はみごとに体現しています。同様に、銀行業界などが足元にも及ばないような個人信用情報システムを独自に築き上げてこられたのも、規制による縛りがなかったからだといえます。

私が運用会社にいた当時、外国人のファンドマネジャーたちは口を揃えて、日本の消費者金融業界のリスク管理は群を抜いて素晴らしいと話していたものです。しかもプライバシー保護の理念づくりにもいち早く取り組んでいたという事実。何も頼るものがなく、自分かちの手で環境を整備し、未来を切り開いていかなければならなかったからこそ、彼らはかくもイノペーティブでいられたのであり、そこには真の自立がありました。それはまさに銀行と消費者金融の一番大きな違いでもあります。

この時代に消費者金融に対する規制が緩かったのは、一般生活者のことにまで国の目が向いていなかったからでもあります。産業主導の経済成長を牽引していた国にとって、個々の生活者の存在がそれほど重みを持っていない時代だったからこそ、消費者金融業界はのびのびと成長することができたのです。一方で、このころから多重債務問題が次第に顕在化していきました。いかなる産業も、市場の拡大期には必ず”大衆化”が起こります。ビジネスエリート層を相手に業を開始した消費者金融が、対象顧客層を拡大することでマーケットを広げる方向に向かったのも、他の産業とまったく同じ進化の過程をたどったものということができます。