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容易に返済事故を起こさせない仕組みがあった時代

そんな地方都市でも、前述したように高度経済成長期を迎えるとサラリーマンの方が「急にお金が必要になった」と言って訪ねて来られる機会が次第に増えてはいました。まだまだ一般個人が銀行で資金を借りることはできず、結果的にわれわれのようなところが受け皿となっていたのです。そういうときは、たとえば次の給料日まで15日あれば、―日1000円として1万5000円をお渡しする。そして給料日に全額を利息と共に返してもらい、さらに資金が必要だったら次の給料日までの分として3万円をお貸しする。文字通り、次の給料日までの”つなぎ”という考え方で資金をご用立てしていました。

大きい額がご入用なら、返済期限1年で12万円をご融資し、毎月1万円ずつの元利金を返していただく元利均等返済方式も取り入れていました。実際、こうしたサービスを提供することで多くのサラリーマンの方に喜んでもらうことができ、貸倒れもほぼ皆無という状況でした。後に、ある大手消費者金融会社の幹部の方に創業間もない1960年代半ばごろの様子を尋ねたところ、やはり1回の貸付けはせいぜい2~3万円で、ほとんど回収のロスはなかったとのこと。

日本の経済が大きく発展していく時代にあって、次第に活力をつけていく国民生活を支えていたのは、紛れもなくこうした小口の資金ニーズに応えていた消費者金融業者ではなかったかと思います。この時代、なぜ返済トラブルが非常に少なかったかといえば、当時の出資法上限金利が年109・5%と高く、返済が遅れると利払いの負担が大きくなるため、貸金業者側も自分かちのお客さまが破綻しないよう互いに配慮し合っていたからです。

すでに他社から借りているお客さまであることがわかれば、それ以上貸すことはせず、とにかく債務の軽減を優先してもらうよう働きかける。そうすることで自分かちの市場を守り、お客さまを守っていくという暗黙のバランス感覚が機能していたのではないでしょうか。借り手の側でも、返済が滞るようなことがあれば即座に親族会議が開かれ、親戚の誰かが立て替えてでも弁済するというケースが少なくありませんでした。地域社会の共同体意識や”恥”の感覚がまだまだ強かった時代のこと、「借金して返せなかったなど、近所に知られでもしたら恥ずかしい」という意識が、容易に不払いを発生させない遠因のひとつになっていたのだと思います。

地方都市の消費者金融市場

岩手県盛岡市で金融業を営んできた当社が消費者金融を開始したのは、1983年(昭和58年)の貸金業規制法施行よりも後のことです。それまでは、ほとんどの地方都市の金融業者と同様、多様な資金ニーズに応える”よろず金融”という存在でした。終戦後から高度経済成長が始まる1960年ごろまでの日本経済は、産業復興の名の下に慢性的な資金不足状態にあり、中小零細の事業者はわれわれのような街の金融業者から「日掛け」という形で当座の必要資金を調達していました。日掛け金融は、事業者の日々の売上げの中から少しずつ返済してもらうという仕組みですから、比較的金利が高い割には借り手の返済負担が少なく、また貸金業者のほうから集金に出向くため、小規模な製造業者や商店主などには非常に重宝な金融です。

貸し手側も、回収した資金を次々と別の貸付けに回していけばよいので、効率的に利益が上げられるという利点があります。当時まだ学生だった私もアルバイトで家業を手伝い、お客さまのところを自転車で集金に回っていたものです。しかし高度経済成長期に入ると一転、一般サラリーマンからの借入れ申込みが増えるようになりました。池田勇人内閣の「所得倍増論」として知られる長期経済計画によって国民所得は急拡大し、国民の生活水準も目に見えて向上。耐久消費財を求める人々のために月賦販売などが普及し、サラリーマン層の多い都市部を中心に、現在に近い形の消費者金融会社が続々と産声を上げはしめた時代です。

それでもこの当時、私に「サラリーマンには金を貸すな」と言っていたものです。日掛け金融は日銭の入る事業者が相手だから成り立つ仕組みであり、月給取りに月1回の返済を求めていたのでは利息が膨らみ過ぎてしまいます。私が正式に会社に入ったのは68年(昭和43年)のことですが、それから15年以上にわたり、当社が消費者金融に主軸を移すことはありませんでした。顧客は依然として地元の中小零細事業者、あるいは農家や漁業関係者などが中心です。貸付額もさほど大きいわけではありませんが、まれに返済が滞り、債務名義をとつて強制執行による請求権の行使に踏み切ることもありました。

ここ盛岡や遠野の付近には、「南部曲がり家」といって、土間をはさんで母屋と馬屋が一体となったL字型の住居に家畜と一緒に暮らしている農家が昔から多く、動産として馬や牛、豚などの差押えに行ったこともあります。昔は、執行動産に差押札を貼ることが一般的でしたが、さりとて動物の体に札を直接貼るわけにもいきません。裁判所の執行官に頼んで、差し押える牛や馬が識別できるよう体の模様までそっくり絵に描いてもらい、その絵に差押札を貼り付けたものを、人が来ても目立たないよう、壁のカレンダーの裏側などに隠すように貼ってもらったこともありました。さすがに鶏をまとめて差し押えようとしたときは、「一羽一羽区別がつかない」と執行官に断られたという冗談のような話もあります。70年代前半ごろまでの地方都市では、何事につけこんなのんびりした商売をしていたのです。

簡便性・迅速性に対していただく金利

同業他社はお客さまの勤め先の安定性を何よりも重視し、大企業の社員や公務員に貸出しを絞り込んでいました。これに対し、パーソナルリースのお客さまは8割がマスコミ関係者です。浜田はよく「マスコミ関係者はサイドビジネスで原稿を書けば臨時収入が入る」と話していました。マスコミ関係者は仕事関連の飲食や接待費の立替えも多いかわり、副収入が期待できるため総じて返済能力が高いというわけです。また浜田は、「明日の米を買う金は絶対に貸すな」とも言っていたものです。

日々の食料は日歩20銭~30銭もの金を借りて買うものではなく、「あくまで生活の余裕資金のニーズに対してお貸ししろ」という意味で、サラリーマンが前向きな目的のために使うお金を貸すという姿勢はとにかく徹底していました。このように黎明期の消費者金融は、成長する日本経済を支える大きな活力であったサラリーマンがどこからも短期・小口のお金を借りることができなかった時代にあって、無担保・無保証、簡単な審査で使途自由の現金を即座にご用立てするという実に画期的なサービスとして登場したものです。パーソナルリースの創業当時、1回のご融資額は平均1万5000円程度、貸出上限金利は年利109・5%でしたが、お客さまからの人気は上々でした。なぜなら、私たちは簡便・迅速という大きな顧客満足を提供していたからです。

私たちも少しでもお客さまの待ち時間を短縮するため、業務フローにさまざまな工夫をこらし、お客さまが申込書に記入しておられるのと並行してバックオフィスで審査業務を進め、書類の記入が終わるころには審査が終わっているほどの迅速性を実現していました。当時はどの業者もこうした手作りの努力を重ねることで、お客さまからの支持を得ていたのです。私は、消費者金融の本当の価値は「時間をお金で買う」という点にこそあると思っています。ちょうど新幹線の運賃がローカル線より高いかわり、目的地まで短時間で運んでくれるのと同じように、消費者金融は審査からご融資までの迅速性に対し高い金利を頂戴しています。

まさに「Time is Money」という言葉に、消費者金融というビジネスの特性が端的に表現されています。どんな人にも急な物入りは必ず起こります。そのときに、特急料金を払ってでもいますぐまとまった資金を手にしたいと考える方には、消費者金融の利用価値がおわかりいただけるはずです。言い換えれば、これはお客さまの価値観の問題。旅行者が旅の目的や日程、予算などによって新幹線とローカル線を自由に使い分ければよいのと同様、資金需要を満たす手段においても幅広い選択肢が用意されるようになったことが、消費者金融誕生の最大の意義ではなかったかと思います。

サラリーマンの活力を応援する金融

私が消費者金融の世界に入ったのは1968年(昭和43年)、株式会社レイク(現・GEコンシューマー・ファイナンス株式会社)の創業者・浜田武雄との出会いがきっかけでした。浜田の父は石炭の事業で一時はかなり成功していましたが、代替エネルギーに主役の座を奪われたことで事業に失敗。親が借金に苦しむ姿を見て、”自分は人を活かす金貸し”になると決意したといいます。しかしこの当時、裸一貫からまとまった原資を作る方法はそうはなく、浜田は自衛隊に入隊。強い意志と才覚を発揮し、収入のすべてを預金して4年間で300万円の資金を貯めたと聞いています。休日や休憩時間は金融経済に関する書籍を読むことに没頭し、独学で庶民のための金融哲学を培いました。

除隊後は東京の金融業者で実務を学んだ末、25歳で大阪の曾根崎新地にレイクの前身となる株式会社パーソナルリースを設立します。64年(昭和39年)のことでした。高度経済成長期に入り、人々の生活は豊かになりつつありましたが、サラリーマンが欲しいものを買い、仕事上の付き合いをするのに十分な小遣いを捻出するだけの余裕はありません。しかし銀行には消費のための資金を庶民に貸すという発想はなく、浜田は当時、「サラリーマンに一番活力があるのに、彼らがお金を借りるところがないのはおかしい。自分はサラリーマンに活力を持たせる金貸しになるために事業を伸ばす」と話していたものです。日本経済を支える大多数のサラリーマンが、個人として金融支援を受けられない現実に対し、浜田は消費者金融業を公的な産業として育成したいと考えていたのです。

”モーレツ社員”という言葉が流行り、働けば働くほど収入が増えていく右肩上がりの時代。人々が仕事にも娯楽にも貪欲になり、未来を先取りするために当座必要な資金を簡単な手続きで借りられるサラリーマン金融は、紛れもなく時代のニーズそのものでもありました。初期の消費者金融の成り立ちについては諸説あるところですが、ひとつが「団地金融」といわれるものです。高度経済成長が始まり、大都市近郊にたくさんの団地が建設されはしめた60年ごろに東京と神戸で相次いで始まったビジネスで、お客さまは団地に住む上場企業のサラリーマンやその妻たちです。当時は団地に住むことそのものがステータスで、入居の申込みには所得の証明が必要でした。

金融業者にすれば、一定の返済能力を証明されたも同然というわけです。61年(昭和36年)仁証券取引所に市場第二部が設けられ、上場会社の数が増えると金融業者の数はさらに増加。浜田がパーソナルリースを設立した60年代半ばごろには、東京に約200店舗、大阪には約80店舗ほどの同業者があったようです。パーソナルリースが店を開いた曾根崎新地は、夜の歓楽街というだけでなく、近隣には大手企業、中でも新聞社や広告代理店、地方放送局の支局などが集中しており、浜田は彼らに向けて”現金出前します”というDM配布を開始しました。お客さまから電話が入ると、”現金の救急車”と称する真っ赤に塗った90CCのバイクにまたがり、お客さまの指定の場所まで現金をお届けするのです。

「勤め人信用貸し」事業の本格推進

そのころ、当社が加入していた兵庫県貸金業協会(当時)のなかで交誼を得た同業者から、「勤め人信用貸し」という業態があることを知らされます。当社の地盤であった神戸市には、この分野において先駆的な方々がおられ、協会も会員向けに講習会や研究会を盛んに開催していました。当社の金融部門の担当者も参加し、これが実に驚くような事業形態であることを学んで帰ってきました。その特徴とは

・給与所得者への「対人信用」に基づく融資であり、健康保険証か身分証明書、給与明細、連帯保証人1名が揃えば、白紙委任状や印鑑証明なしに即時融資を行う。
・融資額は月収相当額を基準にしており、質屋業の融資単価が平均5000円以下であるのに対し、平均2万円程度を融資していた。
・延滞者には法的な回収方法も可能である。
・家族労働や住み込み労働の多い質屋とは違い、法定労働時間内の近代的な営業であり、日曜に休業できる。

いずれも質屋業の常識からは大きくかけ離れており、たいへん魅力的である一方、無担保で2万円ものお金を融通してよいものか、さすがに不安があります。しかし将来性のある新業態を模索していたこともあり、1960年(昭和35年)3月、神戸の元町店において「サラリーマン金融」の試験的な営業を開始しました。結果は非常に好調で、お客さまは順調に増加。返済の遅れもあまりありません。翌年には質屋業とは切り離した独立店舗を開設し、続いて神戸よりも市場の広い大阪の梅田や淀屋橋界隈への出店にも踏み切りました。

梅田や淀屋橋付近には大企業の本支店、銀行や証券会社などが集中しており、いまでいうホワイトカラー層が勤務する地域です。当初の融資条件は、公務員か著名企業に2年以上勤務していることで、必要書類は健康保険証か身分証明書、給与明細。保証人が必要であり、返済回数は3回、5回、10回。貸出金利は年利102%程度というものでした。安定した給与を得ている信用度の高い人々にアピールしようという営業戦略は成功し、お客さまが行列をつくるほどの盛況ぶりで、このビジネスの将来性を確信させるものでした。この時期私は、繊維関連企業で女性ファッションの仕事を主に担当していました。

東京オリンピックが開催された64年(昭和39年)、私は高級婦人服市場の視察を主目的に2週間渡米し、米国での質屋業と消費者金融業の実状についても見て回りました。そして米国には、一般消費者向けにお金を貸す「ローンズ」という看板を出す店が広く定着していること、質屋のほうは資産家層を相手に宝飾品や皮革製品の保管ビジネスとして賑わっていることなどを実際に見聞。これをきっかけに、店名も「サラリーマン・クレジット・ローン」としました。

2年後には、1ヵ月分の給料(サラリー)を融資するという意味から「サラリ・ローン」と改め、新しい業態イメージの確立を図っていきました。いつの時代でも、サラリーマンは月々の給与以外に資金が必要になる局面にしばしば遭遇するものです。質草を抱え、人目を避けるように出入りする質屋とは違って、自分自身の信用だけで現金を借りられるというスタイルは、都会のサラリーマンたちにとって非常にスマートで実用的なものでした。「サラリーローン」は、高度経済成長期以後の都市部に急拡大した給与所得者層が、まさに必要としていた金融サービスだったのです。

時代の要請から生まれた消費者金融

現在のような形態の消費者金融業は、高度経済成長の始まった1960年(昭和35年)ごろに登場しはじめたといわれています。それまでの時代、一般庶民にとって身近な金融といえば「質屋」が代表格でした。ことに終戦後、日本経済は悪性のインフレに見舞われ、人々がその日の生活を送るだけでも精一杯たったなかで、着物や時計、貴金属類を担保に少額の金銭を貸し付ける質屋は大いに業績を伸ばしました。利用者は手近な資産を預ければ当座の資金を借りることができ、インフレで物価が上昇し続けていた時代のこと、高値で質流れ品を処分できるため、業者にとっても収益性の良い商売だったのです。

アコム株式会社の前身はマルイトという質屋ですが、創業は36年(昭和11年)、神戸市生田区(現中央区)に興した丸糸呉服店にさかのぼります。呉服と消費者金融とは一見何の関係もなさそうですが、いわゆる嫁入り道具の着物ともなれば親から娘への財産分与の意味もあり、かなり高価な買い物となります。ときには母娘で来店されたお客さまが、夫や父親の了解を得たいので、反物を一度家に持って帰れないかとおっしゃることがあります。

高価な反物をお預けするのは不安ですが、お客さまを”信用”して反物を渡し、気に入れば買っていただく、そうでなければ返していただくということで商売をうまく展開することができたと聞いています。その後、戦局の悪化や奢侈禁止令によって呉服業は廃業を余儀なくされましたが、戦後の混乱のなかで事業の立て直しで、建築・工業用資材の取り扱いに始まり、洋品雑貨の小売りなどを手掛けるようになります。やがて戦後復興が進み、建築・工業資材の需要が落ち着いた48年(昭和23年)、新たなビジネスとして質屋業に進出しました。

しばらくは順調に業容を拡大し支店も増えましたが、50年代半ばを過ぎると消費生活が好転し、現代ほどではないものの、技術革新の進展や流行のサイクルの短縮化によってモノの価値が低下。質屋業も、庶民金融としてよりも古物販売業として利用されることが増え、一時ほどの収益力はなくなっていきます。当社も一部の支店で手形割引や商店経営者向けの金融を手掛けるなど、金融をペースにした新事業への転換をさまざまに模索するようになりました。